Tribute to KUBRICK

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スタンリー・キューブリック

STANLEY KUBRICK

スタンリー・キューブリック(1928年7月26日 - 1999年3月7日)

映画監督1928年7月26日、米国ニューヨーク市マンハッタン区に、開業医の長男として生まれる。13歳の誕生日に父からキャメラを贈られる。16歳の時、ルーズベルト大統領の死亡記事を見つめる老人を撮影した写真が雑誌「ルック」に25ドルで売れ、掲載されたのを契機に写真、そして映画の世界へ。主な作品に『博士の異常な愛情』『 2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』など。寡作かさく(少ししか作品を作らないこと)の人、完璧主義者、マスコミを避けた著名人として有名。映画監督業の途中で、拠点を米国から英国に移す。

1999年3月7日、英国ロンドンで死去。享年70歳。同年に、遺作となった『アイズ ワイド シャット』が公開された。

映画作品

日本公開作品 恐怖と欲望
非情の罠
現金に体を張れ
突撃
スパルタカス
ロリータ
博士の異常な愛情
2001年宇宙の旅
時計じかけのオレンジ
バリー・リンドン
シャイニング
フルメタル・ジャケット
アイズ ワイド シャット
1999年日本公開
日本“未”公開作品 拳闘試合の日
空飛ぶ牧師
海の旅人たち

スタンリー・キューブリック

(1928 - 1999)


1928年(Newborn) : 7月26日、米国ニューヨーク市マンハッタン区セカンド・アヴェニュー307番地のライイング・イン病院にて誕生
父ジャックは26歳の開業医、母ガートルード(旧姓パーヴィラー)は25歳の主婦。共にユダヤ系で結婚は1927年10月30日。スタンリーは長男。
住まいはブロンクス区クリントン・アヴェニュー2160番地のアパート。
1934年(aged 5 - 6) : 9月12日。ニューヨーク市第3パブリック・スクールに入学。
1935年(aged 6 - 7) : 3月2日。妹バーバラ・メリーが生まれる。
1936年(aged 7 - 8) : 出席率が悪いため、学校に奨められて家庭教師をつける。
163番街と165番街の間のグランド・アヴェニューにあった2世帯向け2階建て住宅に引っ越す。
1938年(aged 9 - 10) : 第90パブリック・スクールに転入。
1940年(aged 11 - 12) : 秋、学業不振の息子に刺激を与えるべく、父ジャックはスタンリーをカリフォルニアの叔父夫婦の元にやる。南パサディナに在住のマーティン・パーヴィラーは、ガートルードの弟で薬局チェーンを経営していた。
1941年(aged 12 - 13) : 秋、第90パブリックスクールの8年生に復学。誕生日に父からカメラを贈られ、写真に目覚める。チェスも覚える。出席率が悪いため学校では目立たなかったが、父の書斎の本を読んだり、映画や野球にも興味を持ち、好奇心旺盛な子供だった。
1943年(aged 14 - 15) : ウィリアム・ハワード・タフト・ハイスクール入学。出席率も学業も悪いが課外活動に熱心で、写真はもちろん、校内バンドのドラマー、ジャズのパーカッションなどで活躍。国語教師のアーロン・トライスターは、彼に写真を撮ることを奨励した。
一家はグランド・コンコース2715番地の6階建て高級アパートの6階に引っ越す。
1944年(aged 15 - 16) : シェークスピア・アヴェニュー1414番地のアパートに引っ越す。同じアパートに越してきた宝石商ハーマン・メッツの長女トーバ(1930年1月24日生まれ)と知りあう。
1945年(aged 16 - 17) : 2月、タフト・ハイスクールに入学。4月12日、当時の米国大統領ルーズヴェルトの死を悼む老人の写真が雑誌『ルック』に25ドルで売れ、6月26日号に掲載される。その後も何度か写真を売る。
卒業単位が足りずに美術教師のハーマン・ゲッターに泣きついたところ、写真も芸術のひとつとして認められ、単位取得を許可される。また、16ミリ映画の手ほどきを彼に受ける。
年末、一家はハリソン・アヴェニュー1873番地の一軒家に引っ越し。
1946年(aged 17 - 18) : 1月、タフト・ハイスクール卒業。成績が悪いこと(509人中414番)や社会的な状況(第2次大戦後に復員した多数の若者が大学進学を希望)もあり、希望する大学への進学を諦め、ニューヨーク大学の夜間クラスに出席。
「ルック」の写真部長ヘレン・オブライアンに採用され、同誌でスタッフ・フォトグラファーとして働き始める。春号から、毎号のように紙面を飾り始める。
1947年(aged 18 - 19) : 8月15日、単発軽飛行機の操縦免許を取得。
1948年(aged 19 - 20) : 5月29日、トーバと結婚。グリニッジ・ヴィレッジのアパート(西16番街37番地)に新居を構える。夏、ポルトガルに取材(「ルック」8月3日号に掲載)。この頃、盛んにチェス・クラブでチェスをする。
1950年(aged 21 - 22) : 夏、スクールの友人ハワード・O・サックラーに長編映画の脚本(「恐怖の形」"Shapes of Fear")を書いてもらう。タイム社が制作していた8〜9分の短編ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を、頼み込んで制作を引き受ける。
『拳闘試合の日』"Days of the Fight"としてPKOパテに売るがその後、短編第2作『空飛ぶ牧師』"Flying Padre"の制作依頼を受ける。
この頃ルック社退社、チェスで生活費を稼ぐ。
1951年(aged 22 - 23) : 「恐怖の形」を自分で制作することを決め、制作資金1万ドルを親戚などから集める。題名を「罠」"The Trap"と改題。
3月、『空飛ぶ牧師』が「スクリーン・ライナー」シリーズの1篇として公開。
4月、『拳闘試合の日』が「これがアメリカだ」シリーズの1篇として公開。
8月、「罠」撮影。夏、ニューヨーク・シティ・バレエのダンサー・ルース・ソボトゥカ(1925年生まれ)がグリニッジ・ヴィレッジに引っ越してくる。「罠」撮影直後に、トーバと離婚。
1952年(aged 23 - 24) : 6月までに「罠」が完成、『恐怖と欲望』"Fear and Desire"に改題。製作費は4万ドル。この 年の後半、ソボトゥカと出会い、一緒に住み始める。
1953年(aged 24 - 25) : 資金繰りに苦労しながら作った『恐怖と欲望』、大手映画会社から配給を断られた末にニューヨーク独立配給業者ジョセフ・バースティン氏に貰われ、ニューヨークで公開される。同じ頃、船員組合のPR映画『海の旅人たち』"The seafarers"の撮影、監督。長編第2作『非情の罠』"KIller's Kiss"を企画。
1954年(aged 25 - 26) : ブロンクスの薬局経営者モリス・ブーゼルから主に出資して貰い、13週間ほどのニューヨーク・ロケで『非情の罠』が完成。製作費は7万ドル。ユナイト・アーティスツに買い上げられる。プロデュース志望のジェームズ・ハリスと出会う。
1955年(aged 26 - 27) : 1月15日、ソボトゥカと結婚。ハリス=キューブリック・プロを結成。ライオネル・ホワイト作「逃走と死と」"Clean Break"の映画化権を1万ドルで取得、『現金に体を張れ』"The Killing"の題で、ハリウッドで撮影開始。製作費は33万ドルとなり、20万ドルをユナイトが出資、残りをハリス=キューブリックが負担。
9月28日、『非情の罠』公開。
1956年(aged 27 - 28) : ハリス=キューブリックに注目したMGMの制作部長ドーア・シャリーと、企画「燃える秘密」"Burning Secret"についての話。しかしシャリーが解雇され、破談に。
5月20日、『現金に体を張れ』公開。
1957年(aged 28 - 29) : ソボトゥカと離婚。カーク・ダグラス側に都合がつき、西ドイツで『突撃』"Paths of Glory"の制作開始。予算95万ドルのうち83万ドルをユナイトが負担。最後の場面で出演するドイツ人女優クリスティアーヌ・スザンヌ・ハーラン(一人娘カタリーナを1953年に出産するが当時彼女は離婚していた)と恋に落ちる。
12月25日、『突撃』公開。
1958年(aged 29 - 30) : 小説「ロリータ」の映画化権を、15万ドル+映画の収益15%で取得。ハーランと結婚。結婚を機にハーランは女優業を引退、画家となる。新居はビバリー・ヒルズのサウス・カムデン・ドライヴ316番地。新婚生活の中でキューブリックは、『突撃』の時にドイツで買った黒いベンツに乗っていた。
1959年(aged 30 - 31) : カーク・ダグラス、自分が主演する映画『スパルタカス』"Spartacus"について監督アンソニー・マンと意見が合わず、監督を解雇。代用としてキューブリックを起用。
4月6日、ハーランとの最初の子アンヤ・レナータが生まれる。
7月、原作者のナボコフに『ロリータ』の脚本を依頼、一度は断られるが12月に承諾。
1960年(aged 31 - 32) : 『スパルタカス』撮影続く。
3月、ユニヴァーサル・スタジオで、ナボコフと『ロリータ』の打ち合わせ。
8月5日、三女のヴィヴィアン・ヴァネッサが、ヴィヴァリー・ヒルズ・ドクターズ病院で生まれる。
10月、『スパルタカス』公開。同じ頃、資金の都合と検閲団体の干渉を避けるため、英国で『ロリータ』"Lolita"の撮影が始まる。8月に打ち合わせで英国行きの飛行機に乗るが、これが生涯で最後の搭乗となり、以後英米の行き来は船になる。
1962年(aged 32 - 34) : 6月24日、『ロリータ』公開。約200万ドルの製作費に対し倍以上の収益を得る。この頃「破滅への2時間」"Two Hours to Doom."の映画化権を3,500万ドルで買い取る。
秋、互いの進展のためにハリスとのコンビ解消。キューブリックはホーク・フィルムズを設立。撮影中、キューブリックは英国のナイツブリッジに住み始める。
1964年(aged 35 - 36) : 1月、「破滅への2時間」を『博士の異常な愛情』"Dr. Strangelove ..."の題で一般公開。興行ヒット。但し日本では東京オリンピックの世相と合わなかったためか不入りに終わる。ニューヨーク・マンハッタンのペントハウスに住まいを移す。
3月、スリランカ在住の英国人SF作家アーサー・チャールズ・クラークに、SF映画の脚本執筆の依頼を出す。年内いっぱい、二人は企画について話し合う。
1965年(aged 36 - 37) : 2月21日、MGMはキューブリックが監督するシネラマ大作「星々の彼方への旅」"Journey Beyond the Stars"の制作発表。
4月、『2001年宇宙の旅』"2001 : A Space Odyssey"に改題。10月、物語の結末が決まる。
12月29日、撮影開始。キューブリックの両親がカリフォルニアに引っ越す。
1967年(aged 38 - 39) : 6月17日、ルース・ソボトゥカ死去。
1968年(aged 39 - 40) : 4月6日、予定を大幅に遅れた『 2001年宇宙の旅』公開。製作費は1,060万ドル。1974年までに4,000万ドルを稼ぐ。
1969年(aged 40 - 41) : 『ナポレオン』の映画化に興味を示すが、製作費が調達できずに断念できる。映画化する原作の候補が上がる中、アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』"A Clockwork Orange"に興味を示す。
1970年(aged 41 - 42) : ワーナーがキューブリックのために『時計じかけのオレンジ』の映画化権を取得。以後、キューブリックはワーナーの資金で映画を制作する。年末からロンドンで撮影開始。
1971年(aged 42 - 43) : 撮影の続いていた『時計じかけのオレンジ』、春に終了。秋に完成する。製作費は200万ドル。
1972年(aged 43 - 44) : 12月、R指定を受けて『時計じかけのオレンジ』一般公開。1978年までに製作費の20倍の収益を得る。
1973年(aged 44 - 45) : 1月末、ワーナーが 『バリー・リンドン』"Barry Lyndon"の制作を発表。
2月、ハーランが個展をロンドンで開く。
5月、撮影開始。
1975年(aged 46 - 47) : 11月末、『バリー・リンドン』の撮影が終了。制作費は1,100万ドル。興行収入は1,000万ドルで、製作費回収できず。
1976年(aged 47 - 48) : 次回作の題材を求めて読書に耽る日々。『エクソシスト2』の監督依頼を断る。
1977年(aged 48 - 49) : ブライアン・オールディスの短編(「スーパートイズ」"Super Toys Last All Summer Long")が気に入り、映画化権を買う。オールディスと脚本執筆をすすめる一方、ワーナーから送られてきたスティーヴン・キングの小説(「シャイニング」"The Shining")を読み、 映画化することにする。
ハートフォードシャー、セント・アルヴァンから2マイルのチリック・バリーに引っ越す。
1978年(aged 49 - 50) : キングの書いた台本を使わず、米国の作家ダイアン・ジョンソンと3ヶ月かけて『シャイニング』の脚本を書く。準備を経て撮影開始。
1980年(aged 51 - 52) : 5月23日、『シャイニング』公開。興行収入3,000万ドルを超す大ヒット。次回作は戦争映画に決め、原作探しを始める。
1982年(aged 53 - 54) : ヴェトナム戦争での体験を書いたグスタス・ハーフォードの小説「短期除兵隊」"The short-timers"の映画化権を取得。
1984年(aged 55 - 56) : 3月10日、長女のカテリーナがフィリップ・ユージン・ホップスと結婚。
1985年(aged 56 - 57) : 1月20日、カテリーナが長男を出産。「短期除兵隊」を『フルメタル・ジャケット』"Full Metal Jacket"の名前で製作開始。ヴェトナムが舞台の映画だが、撮影は全てロンドン。
4月23日母ガートルード死去。10月19日父ジャック死去。二人はニュージャージーの霊園に埋葬される。
1987年(aged 58 - 59) : 6月26日、『フルメタル・ジャケット』公開。製作費は1,700万ドルになったが、公開から55日で3,800万ドル稼ぐ。
1990年(aged 61 - 62) : 5月、映画フィルム保存修復基金設立の発起人に名を連ねる。
1992年(aged 63 - 64) : ルイス・ベグリーの小説(「五十年間の嘘」"Wartime Lies")の映画化権を取得。
1993年(aged 64 - 65) : 4月、『アーリアン・ペーパーズ』の題で「五十年間の嘘」の映画化を発表。しかし中止に。11月、『 A.I. 』の題で「スーパートイズ」の制作発表。
1995年(aged 67 - 68) : 12月15日、様々な映画の企画を保留し、1969 年にも一度浮上したアルトゥル・シュニッツラーの小説(「夢小説」"Traumnovelle")を原作とした『アイズ ワイド シャット』"Eyes WIde Shut"の制作発表。誰が主演かも、この時点で発表されている。
1997年(aged 68 - 69) : 3月8日、米国監督協会から、これまでの功績に対しD・W・グリフィス賞を贈られる。
9月、ヴェネチア映画祭から、これまでの功績に対し金獅子賞を贈られる。
1998年(aged 69 - 70) : 6月、『アイズ ワイド シャット』撮影終了。
1999年(aged 70...and gone.) : 3月3日、ニューヨークにて極秘の『アイズ ワイド シャット』試写会。
3月7日、キューブリック、死亡
3月10日、ラスヴェガスのショー・ウェスト・コンヴェンションで、キューブリック自身が編集した同作の30秒予告編公開。
3月12日、ロンドンの自宅で葬儀。自宅の敷地内に埋葬される。
7月16日『アイズ ワイド シャット』公開。

スタンリー・キューブリック
KUBRICK